灘校鉄道研究部公式ブログ

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5.古典蒸機の世界 【2020年灘校鉄道研究部部誌「どんこう」】

古典蒸機の世界

~鉄道黎明期・関西編~

高校1年  No.7502

 

はじめに

 どうも皆さんこんにちは。この記事では、いわゆる「古典蒸機」、すなわち鉄道黎明期を飾った蒸気機関車たちの魅力について語っていきたいと思います。「蒸気機関車D51しか知らない!」人や、「近代史に興味があるけど鉄道はちょっと…」という人にもとっつきやすい記事であればいいな、と思います。

 

掲載の動機

 当初はこの記事には「昭和の国鉄」について書こうと思っていましたが、今年3月に京都府の「加悦SL広場」が閉園してしまうことになり、数少ない(唯一?)現存する阪神間開業当初の蒸気機関車・120形123号機がどこに引き取られるのかわからない、という事態となりました。おそらくこの記事が皆さんに読まれている時には、123号蒸気機関車は新たな安住の地に移されていることでしょうが、やはり心配です。その一方で、京浜間開業当初の蒸気機関車・110形110号機が、資料を基に再現された開業当初の客車を牽く形で新たな地に整備展示された、という明るいニュースもありました。

 このように、最近は鉄道黎明期の貴重な蒸気機関車たちに大きな動きが起きています。そこで、この記事を読んでくださっている皆さんにも、もっと古典蒸機の世界を知ってもらいたい、と思い、この記事を書くことにしました。ぜひ、千差万別の古典蒸機、そしてその走った路線と物語を、お楽しみください。

 

我らが地元 大阪~神戸間の古典蒸機

今回は、古典蒸機と呼ばれる機関車たちの中でも、我らが地元「阪神エリア」を最初に走った蒸気機関車たち、そして、明治時代初期の阪神エリアの鉄道について話していこうと思います。

その1 路線について

東京から横浜へとつながる京浜間の鉄道に続き、西京(京都のこと)から大阪を通り、神戸までの鉄道を作る。そうして着工された京阪神間の鉄道線路。しかし、そこに立ちふさがったのが、天井川です。灘校の近くを流れる住吉川、石屋川、芦屋川といった天井川が、路線の行く手に流れていて、当時の蒸気機関車たちではこれらの川を鉄橋で渡るには坂がきつくなりすぎるのです。

そこで、川底にトンネルを掘ることでこれらの区間を突っ切っていくことになりました。本校の近くにある住吉川トンネルも、その一つです。1874年5月の開業の当初は、神戸駅三ノ宮駅(今の三ノ宮駅ではなく、元町駅の位置にありました)、西ノ宮駅、大阪駅が開業しました。

「あれ?芦屋駅は?尼崎駅は?…住吉駅は?」

ありません。開業当初はたったこれだけの駅しかなかったのです。そして、神戸から三ノ宮までの間は複線(線路が二列並んでいて、列車がすれ違える)でしたが、三ノ宮から大阪までは単線(線路が一列しかなく、列車がすれ違うことができない)になっていました。各駅にはホームが二つあり、神戸行きと大阪行きの列車がすれ違っていました。

そして一か月後の6月、住吉駅と神崎駅が開業。神崎駅は今の尼崎駅です。名前変えないでおいてくれたら阪神尼崎駅と乗りかえられると勘違いする人は出ないだろうに…。

そして1877年。大阪から京都までの区間がついに開業しました。その一方、それまでにも新橋駅構内で分岐器(ポイントレール)が壊れていたため脱線、前述の神崎駅付近で列車が牛を巻き込んで脱線といった事故は起こっていましたが、とうとう日本最初の死亡事故が発生してしまいました。

当時発生していた西南の役(西南戦争とも)からの帰還兵たちを乗せた大阪方面行きの臨時列車が運転されていましたが、その臨時列車を失念していた、神戸方面行きの回送列車の機関士さんが、数分遅れていた臨時列車をいつもすれ違う定期列車と勘違いして発車してしまったため、遅れて後をついてきた定期列車と正面衝突してしまったもので、乗務員のうち3人が亡くなられました。この事故をきっかけの一つとして、大阪から京都までの間には既に導入されていた閉塞システム(路線に区間を設定して、その一区間には一編成の列車しか入れない仕組み)が神戸から大阪までの区間にも導入され、今の鉄道に続いています。

ここでは、そんな神戸大阪間を結んだ蒸気機関車たちを紹介します。

 

その2 蒸気機関車の紹介

一形式目:5000形

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5000形5000号機:画像はWikipediaから引用

 貨物列車・旅客列車両方に使用できる機関車として輸入された機関車で、日本国鉄ではこの形式しかない、先輪(機関車の前側にあって、曲線を曲がる助けをする車輪)を持たず、動輪(機関車を動かす車輪)を二組持っていて、従輪(機関車の後側に合って、機関車の運転台を支える働きをする車輪)を一組持っている蒸気機関車です。そして、日本最初のテンダー式(「きかんしゃトーマス」のゴードンやジェームスのように、石炭と水を積む炭水車を連結する)機関車でもあります。当初は12、11と名付けられ活躍していましたが、後にそれぞれ4と2に改番。それが最終的に5001と5000になっています。出身はイギリスのシャープ・スチュアート社です。

 

二形式目:7010形・7030形

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7010形7010号機:画像はWikipediaから引用

 貨物列車用の機関車として輸入された機関車で、先輪と従輪を持たず、動輪を三組持っている機関車です。この機関車に限らず、貨物列車用の機関車は、動輪を多く持っていることが多いです。5000形と同じく炭水車を連結したテンダー式機関車で、当初は17から20までの4両がいました。また、製作したメーカーが違う「7030形」という機関車がいます。こちらも、28から31までの4両がいました。出身は7010形がイギリスのキットソン社、7030形が一号機関車(150形)と同じ、イギリスのバルカン・ファウンドリー社です。後述の5100形に改造された7010形2両(19と20)の他は、それぞれ7010・7011・7031・7030・7032・7033号に改番されています。

 

三形式目:5100形

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5100形5100号機:画像はWikipediaから引用

 本格的な旅客列車用の機関車が到着するより早く、開業時のお召列車用の機関車などとして旅客列車用のテンダー式機関車が必要となったので、前述の7010形のうち、19号と20号を改造した機関車で、先輪を二組持ち、動輪を二組持ち、従輪を持たない機関車です。日本最初の魔改造車ということもできるかもしれません。

車両番号はのちに5100・5101になっています。整備され、装飾が施された状態での写真が何枚も残っており、お召列車に使用された可能性があるとされています。因みに、この車輪配置は「きかんしゃトーマス」シリーズに登場する「エドワード」と同じ配置です。後述の120形123号と共に、晩年は加悦鉄道で働いていました。

四形式目:120形・130形・140形

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120形123号機:筆者撮影

 先輪一組、動輪二組、従輪なしのタンク式機関車(石炭や水を機関車に積んでいて、炭水車を連結していない機関車。「きかんしゃトーマス」のトーマスやパーシーのようなタイプ)です。120形となる4両は、イギリスのロバート・スティーブンソン社の出身で、同じ形でメーカーが違う130形と140形は、5000形と同じシャープ・スチュアート社の出身です。

130形と140形は同形ですが、それぞれ「官設鉄道(のちの国鉄、今のJR)にとどまっていた車両」、「日本鉄道(今の東北本線常磐線を持っていた鉄道会社)に移り、日本鉄道が官設鉄道に吸収されたときに官設鉄道に帰ってきた車両」というもので、改装の時期が違います。

写真の123号蒸気機関車は、2020年3月現在、加悦SL広場にて保存されていますが、同広場は閉鎖となることが決定しているため、この後の保存がどのような形になるか心配ではあります。

 

五形式目:5130形

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5130形:画像はWikipediaから引用

 京阪神間の全線開業に伴い増備された機関車で、旅客用の機関車です。5100形同様、先輪と動輪を二組ずつ持ち、従輪を持たない機関車で、日本で初めて、ブレーキを機関車本体にもつけたテンダー式機関車です。出身はキットソン社で、6両がいました。京浜間用に同形でイギリスのダブス社出身の5230形、そしてそのコピー車で国産の5270形という仲間がいます。

 

現在も残る明治の客車たち

 当時の客車は車体に車輪を直付けした四輪車が多く、今の客車や電車のような、車輪を台車に付けて、台車の上に車体を乗せる車両は少なかったそうです。「一等車」「二等車」「三等車」「郵便車」「手荷物車」など、様々な用途に合わせた車両がありました。これらの客車たちの中には、現在も残っている車両もいます。それらを紹介していきたいと思います。

 

その1:ハ4995号車

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ハ4995形車内:筆者撮影

 加悦鉄道にて車体を作り直してハ20となって活躍していたハ4999号の足回りと、同ハ21となって活躍していたハ4995号の当初の車体を組み合わせて復元した客車です。123号同様、行方が気になる車両です。

 

 

その2:ロ481号車

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ロ481号:画像はWikipediaから引用

 廃車後、図書館として使用されていたものを、国鉄多度津工場(現在のJR四国多度津工場)にて復元された客車で、足回りは完全に新製となっていますが、かなり精密に復元されています。多度津工場の保存鉄道車両の一両で、毎年秋の鉄道の日前後に工場が一般公開されるので、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

 

Rsa - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 

その3:初代一号御料車

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初代一号:筆者撮影

 天皇陛下専用の客車で、現在のE655系E655-1号車へと連なる御料車の元祖とも言うべき車両です。1876年製で、現在は大宮の鉄道博物館にて大切に保存されています。

 

 

 

現在も残る古典蒸機

現在も残る、開業当初の蒸気機関車。明治のはじめに日本にやって来た機関車たちが、実に150年近くの年月を経て現在も保存されている、ということは、やはりすごいことだと思います。一方で、5000号(関東大震災で焼損ののち、鉄材として解体)をはじめとして、失われた機関車も多く存在しています。この項目では、現在も我々が見ることができる開業当初の蒸気機関車たちをいくつか紹介していきたいと思います。

 

その1 110形

 110形110号、元「十号機関車」は、青梅鉄道公園にて保存されていましたが、この度新たに「JR桜木町ビル」内に、新製された古典客車同型車と共に展示されるとのことです。

その2 120形

 先述の通り、120形123号がこの後どうなるか、記事締切時には分からないので、現存していることのみ記しておきます。

その3 150形

 「一号機関車」150形は、現在も大宮の鉄道博物館にて保存展示されています。ぜひ、鉄道博物館に行ってみましょう。

その4 160形

 「博物館明治村」にて、165号機関車が動態保存されています。復元の際にボイラー等を新しいものに乗せ換えており、元のボイラーも園内に展示されています。

その5 A3形

 この形式のみ、台湾に送られたため数字のみの番号がついていませんが、台湾の二二八和平公園内に保存されています。

その6 7100形

 7100形は、3機もの保存車があります。7101号機「弁慶」、7105号機「義経」、7106号機「しづか」で、それぞれ大宮の鉄道博物館京都鉄道博物館小樽市総合博物館に保存されています。また、この形式のスペア品を流用して組み立てられた7150形7150号機「大勝」号も、小樽市総合博物館に保存されています。

 

 

あとがき

 今回は古典蒸気機関車、特に阪神間の開業当初の蒸気機関車についてまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか。因みに僕はこの機関車たちの中では「5000形」が一番好きです。皆様も気にいった機関車などはありましたか?ぜひ、鉄道の他、これらの蒸気機関車が走った明治時代についても興味を持っていただけたらな、と思います。

 それでは、この記事はここまでです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

参考文献

いのうえ・こーいち「図説国鉄蒸気機関車全史」(2014)

機関車史研究会「蒸気機関車形式図集」(1988)